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2014.5.4 礼拝メッセージ: 「神の最高傑作品」 エペソ2:1−10

本書には、教会のあるべき姿、クリスチャンの姿が描かれているが、特に本章には、我らが救われたとはどういうことかが、絵に描いたように記されている。

 

1.我らはどういう者だったか

 

前章最後には、栄光に輝く教会の姿がある(1:22,23)。しかし、その素材は粗悪なものだった。罪過と罪とによって死んでいた我らがその素材だ(2:1-3)。

 

「罪過」とは犯した一つ一つの数え上げられる罪、「罪」とは数え上げられない存在としての罪、性質としての罪だ。我らは罪の奴隷であって、死んでいた者だった(ロマ6:23)。具体的には、この世の流れに流され、悪魔に支配され、肉の欲の命じるままに生きていた者で、生まれながら神の怒りを受けるべき存在だった。

 

我らは割礼なく、キリストなく、イスラエルの国籍なく、契約なく、希望なく、神なき者、つまり神の一切の祝福に縁がなかった者だった(11,12節)。

 

これが栄光ある教会の素材だ。なんという粗悪なものか。しかし、神はこんな我らを、神の教会の素材に選び給うたのだ。

 

2.神は何をなし給うたか

 

「しかし」(4節)、神は死んでいた我らを、キリストとともに、つまりキリストによって生かし給うた。これが主の十字架の血による贖い、罪過の赦しだ(1:7)。これは、我らの業によらず、恵みにより、信仰によるものだ(5節 ロマ3:24)。

 

はっきりと救われた魂は、しばらくすると自分の醜さが見えてくる。これが存在としての罪だ。主はそれをも潔め給う。6節に「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ」とある。よみがえるのは生きている者ではなく死んだ者だから、間に死があることになる。それが自我の死だ。

 

己の真相に絶望し、砕かれた魂で主の前に出て十字架を仰ぎ、そこに古き人を信仰をもって付ける。そして、待ち望んだ魂にキリストが臨み給う(ガラ2:20)。よみがえり給うた主がわが内に生き、内から働き出し給う。これが「ともによみがえらせ」ということであり、「共に天の処に座せしめ給えり」(6節文語)という恵みだ。地上に生きながら、魂の居場所は天の処だ。

 

神は、豊かな憐れみと大いなる愛によって、そのようになし給うた。神の動機は憐れみと愛だ。そこには、十字架の血の功という法的な手続きがとられている。信仰によって自分のものにしたい。

 

3.我らはどのように生きていくのか

 

神の作品として、良い行いをして日を過ごしていくのだ(10節)。ただ善行に励むようになるという程度ではない。主の御心にどこまでも従い続けるということだ。

 

器は陶器師に向かって文句を言わない。彼の目的に沿って用を果たすだけだ。神の作品は、神の御心にいつも従順であるはずだ。いつでも何でも、ただ神に喜んで従う、これが「キリスト・イエスにあって造られた」者、救いと聖潔の全き贖いの恵みによって新創造された者だ。

 

我らも神の作品としてあらかじめ備えられている。そうあってほしいという神の重荷だ。神はそのために御子を献げ給うた。信じて従っていくなら、必ずそのようにされる。求めていこう。

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