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2014.5.11 礼拝メッセージ: 「子を生かす母の信仰」  U列王4:18−37

預言者エリヤの弟子エリシャは、元来農夫だったところを、エリヤに見出された(T列王19:)。彼は師から離れず、いつも師に従った。彼は師の形見の外套で、師と同じような力ある業を行った。

 

彼は、かつて師がバアルの預言者と対決したカルメル山に住み、そこから預言者学校に通った。その途中の町シュネムに住む信仰篤い婦人が、彼に下宿を提供した。彼女はただ裕福なだけではなく、霊的な目が開かれており、エリシャを見て神の人と見抜き、親切にした(9,13節)。

 

子どもがない彼女は、楽しみのない人生を送っていたが、それでも心から喜んで神の人をもてなす敬虔さがあった。神は彼女に心を留められ、彼女に、諦めていた子どもを与えられた。彼女は翌年、男の子を出産した。純粋に主を愛し、仕えていけば主は報い給う。

 

思いがけぬ報いに、彼女はどれほど喜んだか。しかし、男の子は成長して、突然死んだ。親にとって我が子の死を見なければならないほど、辛いものはない。主は、時として惨いと見える試練を与え給う。しかし、これは信仰のテストだった。

 

彼女は即座にエリシャのもとへ行こうとした。夫はごく常識的な人で、まだ息があるなら預言者のもとへ行っていいだろうが、既に息子に息がない今となっては、何をしても無駄だと思った。

 

しかし、彼女は夫の制止を振り切って、すぐに出発した。彼女の「それでも、かまいません」(23節)という言葉に、毅然たる態度を見る。我が子の命に関わる問題だ。ぐずぐず世に引き止められてはおれなかった。彼女は、救いを求めて、なりふり構わず一路エリシャのもとへ走った。エリシャなら生かしてくれると確信したのだ。母の信仰だった。

 

エリシャは、まだ遠くにいる彼女を見て、悲しみを読み取った(25節)。単なる悲嘆と絶望の表情ではない。前方を見据えた目、堅く結んだ唇から、並み並みならぬ信仰を見て取った。

 

彼女は、ゲハジには儀礼的な挨拶を述べただけで、エリシャの前に全てを投げ出して、その足にすがりついた。エリシャは、彼女の信仰と子どもへの愛を認めた。

 

ゲハジはエリシャの杖をもってわざをなそうとしたが、失敗した。重荷も愛もなく、ただ機械的に師の杖を子どもの顔の上にかざしても、神の御手を動かすことはできなかったのだ。神は動機をご存知だ。ゲハジの内に名声を得たいとの思いが無意識に働いていたのだろう(次章では彼の物欲が暴露されている)。エリシャの杖も所詮(しょせん)借り物だった。外側だけ真似ても何の力もない。

 

エリシャは、魂への注ぎ出す愛をもって、自分の命を子どもに与え尽くさんばかりに、子どもの体の上に自分の体を重ねた。そして、見事に死の力から魂を奪い返した。神の御手を動かしたのは、エリシャの信仰と愛のわざだった。そのエリシャを動かしたのは、母の信仰と愛だった。母の信仰は子を生かす。

 

子どもの霊的な成長に与える親の影響は多大だ。物質的に不足なく育てていても、親が信仰に立っていないと、子どもは不安定になる。逆に物質的に乏しくても、親が信仰に立っていれは、子どもは霊的に成長する。特に母が信仰に立つなら、子はその信仰を受け継ぐ。母の責任は重い。

 

子は親の背中を見て育つ。親が背中に表すのは信仰だ。どんな時でも主を信じ、主に従っている姿勢を、キリストの十字架を仰ぐ信仰を見せていたい。

 

滅びゆく子どもの魂をサタンの手より奪還するために、まず自らが信仰に立ちたい。我をも愛し給うた主の愛に押し出されて、信仰と愛をもって救霊の戦いに出たい。戦いはもっとも身近な家庭から始まる。信仰の継承を勝ち取ろう。

 

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