ここに登場する人物は、明らかに恵みを求めてイエスのもとに来た。彼は役人であり(ルカ18章)、青年であり(マタ19章)、また裕福な人で(22節)、自分から永遠のいのちを求めてきた。地位、若さ、富など、人が欲しいと思うものが全部そろっており、何不足ない境遇にいたが、満足がなかった。それは、永遠のいのちを自分のものとして受けていなかったからだ。
永遠のいのちは、ユダヤ人たちが求めてやまないもので、これを得るために律法を守ってきたと言ってよい。だからイエスは「戒めはあなたもよく知っているはずです」(19節)と言われたのだ。戒め・律法とは、イスラエルの民が神を信じ幸せを得るために、永遠のいのちを得られるようにと、神が彼らに与えられた掟だ。
イエスの言葉に対して彼は、幼少から守ってきたと胸を張って答えた(20節)。彼は何不足ない境遇だっただけでなく、道徳的にも立派だったのだ。世間的には立派な人、偉い人と評判されていた。しかし、どれほど努力しても、どれほど誉められても、永遠のいのちがなかったのだ。
イエスは彼を見つめられた。それは慈しみの目だった(21節)。そして「あなたには、欠けたことが一つあります…」と言われた。彼は今までこう言われたことはなかった。家庭や才能に恵まれ、エリートコースを歩んできた彼に、そのようには誰も言ってくれなかったが、主がはっきりと指摘された。
主は、持ち物を売り払って、貧しい者に与えよと言われた。この言葉に彼は鋭く刺された。自分でも気が付かなかった心の奥底を見透かされたのだ。しかし、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去った。従えなかったのだ。資産に強い執着・愛情を持っていたからだ。
イエスが言わんとされたのは、慈善事業の勧めでも、善い行いをすれば永遠のいのちが得られるとの安易な約束でもない。心が何に向いているか、何を第一としているかを指摘されたのだ。「『姦淫してはならない。殺してはならない…』」は、結局「あなたの隣人を、あなた自身のように愛せよ。」(マタ19:19)になる。彼は役人だから、律法に精通していたはずだ。実際、小さい時から律法を遵守してきたのだ。
何が欠けていたのか。律法の根底に流れる愛を知ることが欠けていたのだ。「隣人を愛せよ」とあることは知っているが、言われて愛せるものではない。いや、自分のうちには愛などない。自分には金銀への愛だけで、人を愛する愛など皆無だ。そこに光が当たって、彼は顔を曇らせ、悲しみながら立ち去ったのだ。形の上では律法を遵守してきたが、律法が真に求めている愛が欠落していたのだ。
我らが永遠のいのち、真の救いを得るために必要なものは、財産などの物質ではなく、表向きの律法遵守でもない。愛だ。これは我らが本来は持ち合わせていないものだ。「あなた自身のように愛せよ」とあるが、自分への愛しかない。人への愛はかけらもない。
真の愛は神を知ることから来る。神は、独り子キリストを我らに下さった(ヨハ3:16)。罪なき神の子キリストは、我らの罪のために十字架にかかられた。我らが罪を悔い改め、十字架を信じるなら、罪が赦され、滅びから救われ、永遠のいのちが与えられる。
「汝なお一つを欠く」(21節文語)。あれもこれもではない。ただ一つ、愛が欠けているのだ。我らを愛し給う神の愛で人を愛することが求められているのだ。
まず罪の赦しをいただこう。悔い改めて十字架を信じ、罪からの救いをいただこう。そして、さらに十字架の血潮で内側を全く聖めていただき、真の愛で神と人を愛する者にならせていただこう。
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